2015年6月26日20時54分
25日に開かれた自民党文化芸術懇話会で出た主な意見は次の通り。
●大西英男衆院議員(東京16区、当選2回)
「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番。政治家には言えないことで、安倍晋三首相も言えないことだが、不買運動じゃないが、日本を過つ企業に広告料を支払うなんてとんでもないと、経団連などに働きかけしてほしい」
●井上貴博衆院議員(福岡1区、当選2回)
「福岡の青年会議所理事長の時、マスコミをたたいたことがある。日本全体でやらなきゃいけないことだが、スポンサーにならないことが一番(マスコミは)こたえることが分かった」
「沖縄の特殊なメディア構造をつくったのは戦後保守の堕落だ。先生なら沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていくために、どのようなアクションを起こすか。左翼勢力に完全に乗っ取られている」
●百田尚樹氏
「本当に沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん。沖縄県人がどう目を覚ますか。あってはいけないことだが、沖縄のどっかの島でも中国にとられてしまえば目を覚ますはずだ」
「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。周りに何もない。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、今や街の真ん中に基地がある。騒音がうるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰やと言いたくなる。基地の地主たちは大金持ちなんですよ。彼らはもし基地が出て行ったりしたら、えらいことになる。出て行きましょうかと言うと『出て行くな、置いとけ』。何がしたいのか」
「沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄県全体で沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方が、はるかに率が高い」
「政治家というのは、理念、信念、大事ですが、言葉が大事だ。戦争と愛については何をしても許されるという言葉があるが、政治家もある程度『負』の部分はネグったらいい。いかに心に届くか。その目的のためには多少……もちろんウソはダメですが」
[ 2015年6月26日 13:32 ]
「関東防空大演習を嗤ふ」[編集]1933年(昭和8年)8月11日、折から東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して、悠々は社説「関東防空大演習を嗤ふ」を執筆する。同文中で悠々は、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は近代技術の前に★意味がないばかりか、パニックを惹起し★有害であること等、12年後の日本各都市の惨状をかなり★正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、★我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と★喝破した[21][22]。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の★不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の★退社を強いられた[23][24]。
桐生 悠々 桐生悠々の肖像写真(撮影時期不明) 出生 桐生 政次1873年5月20日
日本・石川県金沢市 死没 1941年9月10日(満68歳没)
愛知県名古屋市 出身校 東京帝国大学法科大学政治学科 卒業 職業 ジャーナリスト
評論家 肩書き 信濃毎日新聞 主筆(1910-14年、1928-33年) 主な業績 「陋習打破論―乃木将軍の殉死」(『信濃毎日新聞』、1912年)
「関東防空大演習を嗤ふ」(『信濃毎日新聞』、1933年)
『他山の石』(1934-41年)
桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年5月20日 - 1941年9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は政次(まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。
生涯[編集]金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、1892年(明治25年)には小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科(現在の東大法学部)に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ[1][2]。
記者生活の開始[編集]東京府の官吏、保険会社、出版社、下野新聞の主筆などを転々としたのち[3][4]、1903年(明治36年)、大阪毎日新聞に学芸部員として入社するが満足な執筆の場を与えられず退社[5][6]、1907年(明治40年)には大阪朝日新聞に転籍して、大朝通信部詰めという立場で東京朝日新聞社内で勤務、「べらんめえ」と題した匿名時事批評が評判となる[7][8]。
1910年(明治43年)には信濃毎日新聞の主筆に就任した[9][10]。1912年(大正元年)、明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将をすぐさま批判した社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」を著し、反響を呼ぶ[11][12]。1914年(大正3年)には、シーメンス事件に関して政友会を攻撃、信濃毎日新聞社長・小坂順造は政友会所属の衆議院議員であったため対立、退社を余儀なくされる[13][14]。
同年には新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、社説およびコラム「緩急車」で信毎時代と変わらぬ反権力・反政友会的言説を繰り広げるも、新愛知はこれまた政友会系新聞であったことと、同紙と憲政会系・名古屋新聞との激しい販売競争(皮肉にも両紙は太平洋戦争中の新聞統合で中日新聞を形成する)に疲れたこともあり退社する[15][16]。1924年(大正13年)には第15回衆議院議員選挙に無所属で出馬するも落選[17]、落選後は自ら日刊新聞を発行するも1年持たず廃刊[18]負債だけが残り浪人生活を数年送る[19]。