新国立競技場の設計者、ザハ・ハディド氏が韓国に造った建物もすごい
The Huffington Post | 執筆者: 吉野太一郎
投稿日: 2014年04月01日 14時52分 JST 更新: 2014年04月02日 08時29分 JST
引用:::半島浪人レポ ソウルにてフリージャーナリストをしていた頃の全軌跡。 東大門運動場の撤去 ・ 強制排除の歴史は続く 2007年12月27日
写真:東大門野球場
東大門運動場は1925年、皇太子(後の昭和天皇)の結婚を記念し、韓国初の総合競技場として京城グラウンド(京城運動場)という名前で日本政府によって造られた。現在は、戦後に隣り合って造られた東大門野球場とあわせて東大門運動場と呼ばれることが多い。陸上大会や高校野球、大学野球など大きな競技が行われた。
総面積2万2700坪、総工事費は当時の金額で15万5000ウォン、収容人数2万5800人。当時は東洋で2番目で大きかった。多くの市民が試合観戦に足を運び、植民地時代の鬱憤を晴らしたと言われる。
植民地時代末期には「国民精神総動員朝鮮連盟」などの親日団体が戦時動員大会を開き、市民を戦場に送り出すのに利用した。
戦後は、右翼・左翼団体が交互に大規模な集会を開いた。独立運動家の金九(キム・グ)が中国から帰国した45年12月には、臨時政府還国奉迎会が開かれ、ソウル市民3万人が集まって「金九先生、万歳」と叫んだ。金九の葬儀もここで開かれた。
写真:現在の東大門運動場
ソウル市は06年に撤去を決定。今年12月18日から撤去工事を始めた。08年3月までに作業を終える計画。跡地には約3000億ウォンを投じて有名外国人建築家による建築群と公園ができる。
写真:撤去工事中の東大門野球場
現在運動場は老朽化のため運動競技には使われておらず、駐車場と蚤の市となっている。蚤の市は骨董品、電子部品、衣服、美術品、飲食店などあらゆるものが揃う独特の空間で、多くの人に親しまれている。現在も撤去反対を表明しながら多くの露天商が商売している。
これら露天商の多くは元々、清渓川(チョンゲチョン)という暗渠の川の上で商っていた。次期大統領に選ばれた李明博氏がソウル市長だったとき、清渓川の暗渠と高架道路の撤去、清渓川の復元工事が行われ、露天商たちは工事にともない東大門運動場の中に移転させられた経緯がある。強制移転はこれで2度目となるが、今回は代替地が用意されていない。
このため露天商や施設内部で商売してきたスポーツ用品店などは「代替地のない強制移転反対」を表明して撤去工事に反対。工事初日には機動隊との衝突も起きた。
写真:撤去工事が始まっても蚤の市はまだにぎわっていた(12月25日)
韓国の経済成長は大規模開発の歴史だったといえる。裏返せばこれは、強制移転の歴史でもある。次期大統領の李明博氏をあえて否定的な視点で見れば、現代建設社員・役員時代のアパート団地造成、ソウル市長時代の清渓川の復元など、ブルドーザーの異名もとる彼は開発と強制移転のプロフェッショナルとも言える。彼はソウルと釜山を水路で結ぶ「大運河構想」を大統領選の公約のひとつに掲げていたが、この計画も実現すれば大きな痛みの生じるプロジェクトだ。
生活者を排除する東大門運動場撤去や平澤米軍基地拡張計画のような非民主的な政策は、いつまで続くのだろうか。 ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
2020年東京オリンピックのメーンスタジアムとなる新国立競技場を設計したザハ・ハディド氏の建物が、韓国でも議論を呼んでいる。ザハ氏が設計し、3月21日にソウルにオープンした大型展示・商業施設「東大門デザインプラザ(DDP)」だ。
引用:::半島浪人レポ ソウルにてフリージャーナリストをしていた頃の全軌跡。 東大門運動場の撤去 ・ 強制排除の歴史は続く 2007年12月27日
http://blog.livedoor.jp/yorogadi/archives/51047188.html
植民地時代に造られ、かつてソウルのメインスタジアムであり続けた東大門運動場(旧・京城グラウンド)が、老朽化にともない撤去され始めた。市民に長年親しまれたスタジアムがなくなるのは寂しいといった声や、ソウルの景色が変わってしまうという声も聞こえるが、もっと切実なのは施設内外で商売していた露天商たちだ。清渓川から強制移転させられこの地に来た露天商たちは、代替地も用意されないまま再び強制的に追い出される。
写真:東大門野球場
東大門運動場は1925年、皇太子(後の昭和天皇)の結婚を記念し、韓国初の総合競技場として京城グラウンド(京城運動場)という名前で日本政府によって造られた。現在は、戦後に隣り合って造られた東大門野球場とあわせて東大門運動場と呼ばれることが多い。陸上大会や高校野球、大学野球など大きな競技が行われた。
総面積2万2700坪、総工事費は当時の金額で15万5000ウォン、収容人数2万5800人。当時は東洋で2番目で大きかった。多くの市民が試合観戦に足を運び、植民地時代の鬱憤を晴らしたと言われる。
植民地時代末期には「国民精神総動員朝鮮連盟」などの親日団体が戦時動員大会を開き、市民を戦場に送り出すのに利用した。
戦後は、右翼・左翼団体が交互に大規模な集会を開いた。独立運動家の金九(キム・グ)が中国から帰国した45年12月には、臨時政府還国奉迎会が開かれ、ソウル市民3万人が集まって「金九先生、万歳」と叫んだ。金九の葬儀もここで開かれた。
写真:現在の東大門運動場
ソウル市は06年に撤去を決定。今年12月18日から撤去工事を始めた。08年3月までに作業を終える計画。跡地には約3000億ウォンを投じて有名外国人建築家による建築群と公園ができる。
写真:撤去工事中の東大門野球場
現在運動場は老朽化のため運動競技には使われておらず、駐車場と蚤の市となっている。蚤の市は骨董品、電子部品、衣服、美術品、飲食店などあらゆるものが揃う独特の空間で、多くの人に親しまれている。現在も撤去反対を表明しながら多くの露天商が商売している。
これら露天商の多くは元々、清渓川(チョンゲチョン)という暗渠の川の上で商っていた。次期大統領に選ばれた李明博氏がソウル市長だったとき、清渓川の暗渠と高架道路の撤去、清渓川の復元工事が行われ、露天商たちは工事にともない東大門運動場の中に移転させられた経緯がある。強制移転はこれで2度目となるが、今回は代替地が用意されていない。
このため露天商や施設内部で商売してきたスポーツ用品店などは「代替地のない強制移転反対」を表明して撤去工事に反対。工事初日には機動隊との衝突も起きた。
写真:撤去工事が始まっても蚤の市はまだにぎわっていた(12月25日)
韓国の経済成長は大規模開発の歴史だったといえる。裏返せばこれは、強制移転の歴史でもある。次期大統領の李明博氏をあえて否定的な視点で見れば、現代建設社員・役員時代のアパート団地造成、ソウル市長時代の清渓川の復元など、ブルドーザーの異名もとる彼は開発と強制移転のプロフェッショナルとも言える。彼はソウルと釜山を水路で結ぶ「大運河構想」を大統領選の公約のひとつに掲げていたが、この計画も実現すれば大きな痛みの生じるプロジェクトだ。
生活者を排除する東大門運動場撤去や平澤米軍基地拡張計画のような非民主的な政策は、いつまで続くのだろうか。 ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
:刑法124条「往来妨害罪」南署癒着!? ⇔消防出動にて撤去感謝⇔ペットボトルにガソリンつめて放火もうしのべたと冤罪貶め
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調書写し(現況道路図)