:「光と影 世の中は 違う考えで 成り立ってる ガリレオ:だが 地球は動いてる」
:昭和天皇陛下⇒「アラヒトガミ・現人神⇒人間宣言」(マッカーサー★腰に手を当て写真撮影⇒不敬!)
:無条件降伏⇒東条英機敗戦職責大将⇒信賞必罰⇒降格人事⇒二等兵・懲戒免職希求!(栄典⇒従2位のまま⇒無条件降)⇒日本「♪耐え難き惨禍」
:【会戦証書】⇒サイン岸信介・東条英機大将等⇒戦争指導者処罰無!
:日本人⇒権力パワハラ側には物言え無い情けない日本人! ⇔ドイツ国 現時点でも★一兵卒ナチスを告発裁判!
視点・論点「シリーズ“戦後70年” 被爆者の想(おも)い」2015年8月13日(木) 4時20分~4時30分
出演者 広島県被団協 副理事長…箕牧智之
トリハダ(秘)スクープ映像100科ジテン 3時間スペシャル 2015年8月13日(木) 19時00分~21時48分
九死に一生&奇跡の生還SP▼「日本最後のスパイ」国境越えた夫婦愛ほ
「日本最後のスパイ」国境越えた夫婦愛 戦時中、中国にスパイとして潜伏した深谷は中国人女性と結婚。4人の子をもうけた。全てはスパイ活動の一環「偽りの家族」のはずだった。だが終戦で狂い始めた運命の歯車が彼らを襲う!その中で「偽りの家族」が「本当の家族」となっていトリハダスクープ 日本最後のスパイ 深谷義治 image.jpg
8月13日(木)の テレビ朝日系 『トリハダ(秘)スクープ映像 100科ジテン』
今回は、日本最後のスパイ 深谷(ふかたに)義治
国境越えた夫婦愛が放送されます。
”日本最後のスパイ”といわれる
元日本陸軍憲兵 深谷義治さんは、今年4月21日に肺炎でお亡くなりになりました。享年99歳でした。
深谷義治さんは、敗戦後も中国 上海でスパイ活動を継続し、獄中生活を経て1978年帰国されました。
昨年12月、次男の深谷敏雄さんが著書『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』(集英社 刊)を刊行、この本には、父 義治さんの獄中生活と一家の過酷な生活が描かれています。
日本最後のスパイ深谷義治さんは、★1915年6月16日 島根県大田市に生まれました。
22歳で浜田歩兵第21連隊に入り、陸軍の憲兵志願試験に合格後の
1940年、★極秘任務を受けた深谷さんは、
軍服を脱ぎ、現地の商人になりすまし、中国で”特務任務”という
地下工作に従事、情報収集のほか、敵国★通貨を偽造して現地の貨幣相場を混乱させる役割を担い、敵に打撃を与え★27歳の若さで★叙勲を受けました。
第二次世界大戦中、中国戦線で日本軍のスパイとして活動した深谷さんは、任務を円滑に遂行するため上海出身の陳綺霞さん(当時15歳)と結婚、中国人として潜伏し、4人の子供(三男一女)をもうけました。
全てはスパイ活動の一環「偽りの家族」のはずでした。
image.jpg 深谷義治さんと妻
深谷さんは、★敗戦しても★潜伏生活を★続けられるよう
1943年に電気関係の技能を習得、終戦直後、★捕虜となった上官の★拘束場所に★忍び込み「★上海で任務★続行せよ」の極秘★指令を受け、★敗戦後も★13年間、中国人 ”尤志遠”として上海に潜伏し続けたのです。
しかし、終戦で狂い始めた運命の歯車が深谷さん一家を襲ったのです。
1949年、中華人民共和国が成立、反政府勢力への弾圧が厳しさを増し、
19★58年、深谷さんは、スパイ容疑で中国当局によって★逮捕されてしまったのです。
深谷さんは、戦★時中のスパイ容疑は認めましたが、戦後のスパイ活動は
一貫して★否定したため、世界最悪と言われた上海第一看守所で凄まじい★拷問を
受け続けることになるのです。
意識を失うと、冷水を浴びせられ、厳しい追及が続く…
このような獄中生活で義治さんの★背骨は折れ、身長が★縮み、★左目を失明…
容疑を★認めれば寛大な扱いが受けられると言われても深谷さんは、完全★黙秘を貫いたのでした。
そのため、獄中生活は★20年4カ月にも及んだといい、判決を受けるまでの押し16年間は外界からの連絡を★一切禁じられたといいます。
残された妻と4人の子どもたちは上海の地で貧しい生活を送り、逮捕時義治さんが日本人であることが明るみになったことで、国を★裏切ったスパイの★家族として
徹底した★迫害を受け、★子供たちは、”日本の★鬼の子”と呼ばれ凄まじい差別を受けてきたのでした。
なぜ義治さんは、★酷い拷問を受け獄中生活を強いられ…
家族は差別と貧困に苦しんでいたのに…
戦★後のスパイについては★一貫して★否認したのか…
それは、戦★後のスパイ行為は、★国際法★違反で、義治さんは、
日本国の名誉のため戦★後スパイを★否認し続けたのだといいます。
一家は、不屈の精神で迫害を耐え抜き、19★78年、★日中平和友好条約締結に伴う★特赦を受け一家全員で★大田市に★帰郷しました。
しかし、家族の“戦争の爪あと”は深く…帰国してからも★貧しい生活を強いられたといいます。
父親の無念を…国の★ために尽くしてきた深谷義治さん。
義治さんは受刑中、面会に来られた当時の★島根県知事恒松制治さんに
「釈放されたら『母を想う』という内容で★本を書いて、日本の皆さんに
私の波乱万丈の人生をわかっていただきたいと思います」と話していたそうです。
実は、帰国の★10ヶ月前に義治さんの★母親は亡くなっており、義治さんは、
母と再会できなかった事を悔い『★岸壁の母』をよく口ずさんでいたそうです。
しかし、★20年以上にわたる★獄中生活の★後遺症と帰国後も恵まれない生活を送ったことが追い打ちをかけ、義治さんは、★重度身体障害者になり、★晩年は病院で★寝たきりの状態で自らの手で本を執筆することは★出来なくなっていたそうです。
日本の★ために命を懸けながら報われない…
義治さんの思いを実現するため、そして、「一家が強いられた苦難を歴史の★闇に葬ってはならない」という使命感から、義治さんの★次男 敏雄さんは、
『日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族』(集英社 刊)を執筆しました。
image.jpg 父 義治さんは★20年以上も投獄され、★母親は苦しみに耐え、
ひたすら義治さんの解放を待ち続けたといいます。
そして、★兄は無実の罪で★9年間投獄され、★敏雄さん自身も★農場に下放されていたそうです。
★特赦が決まり、深谷さん一家が★帰国した時、★敏雄さんは★30歳でした。
帰国後、軍人★恩給は、本来の支給額を大きく★下回り、
:◆:他人が深谷義治の恩給を受給する「なりすし詐欺」被害 ⇔役所はそのまんま!「どうしようもない」 ⇔【憲法31条適正手続き?】
:【憲法12条】この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の★不断の努力によって、これを保持しなければならない。
一家の生活は★困窮し、父 義治さんは体が不自由なままだったため★帰国後、★一週間も経たないうちに★敏雄さんは、両親を養うために工場で働くことになったそうです。
上海で生まれ育ち日本語が★ひと言もしゃべれなかった★敏雄さんは、仕事をしながら、★独学で日本語を覚えていったそうです。
敏雄さんは、その後、島根、京都、広島でタクシーの運転手や自動車工場の作業員として働いてきたといいます。
長い間、★差別に★貧困と酷い生活を強いられてきた★敏雄さんですが、父 義治さんについて「父を恨んだことはない。だって父は戦争の★犠牲者だから」と話し、
父 ★義治さんが倒れたことをきっかけに★本の執筆を思い立ち、広島市の日本語教室に通いボランティアの先生の協力も得ながら『日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族』を完成させることができたといいます。
image.jpg 深谷義治の次男 敏雄さん
この本には、父 ★義治さんが★監獄の中で書いた壮絶な「獄中★記録」もあり、
悲惨な運命をつくり出す★戦争が再び起きないようにとの想いが込められています。
また、「偽りの家族」だったはずがいつしか変化し…この本には「★本当の家族」の姿が描かれているようです。
敏雄さんが★6年もの歳月をかけて★執筆した『日本国最後の帰還兵
深谷義治とその家族』そして、8月13日(木)の『トリハダ(秘)スクープ映像
100科ジテン』日本最後のスパイ深谷義治国境越えた夫婦愛
ぜひ ご覧ください。