:戦前利害関係者⇒軍閥・財閥⇒自己批判無⇒暴走時代再構築 ⇔真逆周期【振り子運動=人類共食い周期!?】トホホ!自然摂理⇒適正人口=間引き!?=男性人口35億人!?
◆無党派層は石破氏が人気、支持46%…読売調査 : 政治 : 読売新聞 ...
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20180827-OYT1T50024.html
5 時間前
◆小泉進次郎氏 自民党総裁選直前にインド外遊 | 文春オンライン
bunshun.jp/articles/-/8194 2018/07/18 - 進次郎氏は『この時期、何を言ってもどうせ総裁選にからめて書かれるから』と、8月は外遊する予定なんです」(進次郎氏周辺)9月下旬に行われる自民党総裁選のカギを握る男・小泉進次郎自民党筆頭副幹事長(37…
◆ゴーストップ事件 - https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴーストップ事件
ゴーストップ事件(ゴーストップじけん)は、1933年(昭和8年)に大阪府大阪市北区の天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩、およびそれに端を発する陸軍と警察の大規模な対立。
◆反軍演説 Jump to navigationJump to search 斎藤隆夫https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%BB%8D%E6%BC%94%E8%AA%AC#%E9%99%A4%E5%90%8D
反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫が行った演説。日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。この演説により、3月7日、斎藤は衆議院議員を除名された[1]。この経緯は言論弾圧としても扱われる。なお、「支那事変処理を中心とした質問演説」や「支那事変処理に関する質問演説」を、一般的に「反軍演説」と称している。
経緯 演説まで
斎藤は「粛軍演説」で軍部の政治関与を批判するなど、国民からの注目を浴びるも、警察・軍部から監視され、脅迫状などの攻撃も受けた。「国家総動員法案に関する質問演説」において、国家総動員法の危険性を指摘するも、立憲政友会と立憲民政党の二大政党は斎藤の主張を無視し、全会一致で成立。その後、過労から転倒して打撲し、脳梗塞の疑いで病床に着く。日中戦争の長期化につれ、病床の斎藤の元へ日増しに、「なぜ、斎藤は沈黙するのか」という類の手紙が増加し、国民の声を議会に届けるべく、「国家総動員法反対演説」から2年ぶりの登壇を決意。1939年11月18日原稿の起草に着手、演説の練習を繰り返す(#逸話参照)。
1940年1月14日、阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親英米派である米内光政内閣が成立した。その後召集された、第75議会の衆議院本会議での、2月2日の議題「国務大臣の演説に対する質疑」における、立憲民政党所属の当時71歳、斎藤隆夫による1時間半に及ぶ午後3時からの「支那事変処理を中心とした質問演説」[2]である。久しぶりの斎藤の演説ということで、傍聴席は満員であった。
議会召集後、民政党院内主任総務俵孫一に質問の旨を通告し、総裁町田忠治は質問に否定的な意向であったが、斎藤はこれを無視。
米内総理、閣僚の演説の後、民政党小川郷太郎の原稿朗読演説、立憲政友会中島派[3]東郷実の演説の後に斎藤が演壇に立った。
演説
斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである[4]。
第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか
第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか
第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか
第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問
第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等
「演説中小会派より二、三の野次[5]が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記している[6]。そして、「しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」と付け加えている。 演説当日の具体的様子として斎藤は、「時局同志会や社民党[7]から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである」と記している。
演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤章(陸軍軍務局長)や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していたという[8]。
また、衆議院議長で、身内の民政党の小山松寿は斎藤の演説中に「聖戦の美名云々」などのメモを記し、衆議院書記官長[9]大木操に渡し、職権により、演説全体の3分の2程度、約1万字にも及ぶ、軍部批判にあたる箇所を削除させた。大木は抵抗したものの小山に屈し、「私はこの時職を賭して戦うべきであった」とのち、日記で悔いている。なお、大木は秘密会の議事録を、陸軍の焼却要求から守り抜き、日記で斎藤除名の様子を詳細に記述するなど、当問題についての貴重な史料となっている。また、斎藤の演説の全文が新聞各紙の一部地域向けの紙面に掲載されたため、反軍演説が各地に報道されることになった。更に外電で配信され、交戦国の中華民国で大きく報道され、アメリカでも報道された[10]。
除名
民政党は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして、受諾。また、総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から、自発的に議員辞職をするよう促されたが、断固拒否した。
反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写する。
政友会中島派、時局同志会、社民党[7]は懲罰賛成に結束し、政友会久原派[3]の多数は反対にみえる。民政党は秘密代議士会を開いて討議しているが、大多数は反対に傾き、幹部攻撃に激論沸騰して容易に収拾すべくみえない
後日、斎藤は懲罰委員会に出席することとなるが、その委員会では、
劈頭私は起って質問演説をなすに至りたる経過とその内容の一般を述べ、さらに進んで政友会中島派より提出したる七ヵ条の懲罰理由を逐一粉砕し、かつ逆襲的反問を投じたるに、提出者は全く辟易して一言これに答うること能わず。
その結果、
委員会は全く私の大勝に帰し…翌日の新聞紙上には、裁く者と裁かれる者が全く地位を顛倒し、私が凱旋将軍の態度をもって引き上げたと記載したほど
とその有様を紹介している。
そして3月7日の本会議で、除名の可否の投票が行われた。議場には167名と3分の1弱の空席を出した。民政党は除名賛成に党議拘束をかけたが、斎藤と親しかった岡崎久次郎が除名に反対し、脱党。民政党で唯一の反対票を投じた。残り170名のうち4割強の69名が欠席または棄権をした。政友会は、久原派が71名中27名が棄権・欠席、全会派中最多の5名が反対。軍部寄りの中島派も97名中16名、金光派は10名中4名が棄権・欠席した。軍部寄りの社会大衆党は34名中、賛成であった病欠の麻生を除き10名が棄権・欠席し、時局同志会は30人中5人が棄権。無所属議員は10名のうち、反対1名、棄権・欠席が7名であった。
投票結果は以下の通り[11]。
賛成 296名[12]: 浅沼稲次郎・河上丈太郎・河野密・三輪寿壮・三宅正一・亀井貫一郎・杉山元治郎・平野力三・野溝勝・佐竹晴記(以上社会大衆党)・星島二郎・松野鶴平・中井一夫・西岡竹次郎・綾部健太郎(以上政友会久原派)・望月圭介・前田米蔵・島田俊雄・山崎達之輔・中島知久平・船田中・星一・川島正次郎・羽田武嗣郎・岸田正記・宮沢裕・木暮武太夫・田子一民(以上政友会中島派)・金光庸夫(政友会金光派)・木村武雄・清瀬一郎・赤松克麿・三木武夫(以上時局同志会)・内田信也・秋田清・安倍寛(以上第一議員倶楽部)など
空票 144名
棄権[13] 121名 : 鳩山一郎・若宮貞夫[14]・大野伴睦・河野一郎・安藤正純・植原悦二郎・林譲治・世耕弘一・三土忠造・森幸太郎(以上政友会久原派)・犬養健(政友会金光派)・田辺七六(政友会中島派)・松永東・松田竹千代・中山福蔵・木檜三四郎・川崎克・矢野庄太郎・工藤鉄男(以上民政党)・水谷長三郎・西尾末広・黒田寿男・松本治一郎・米窪満亮・富吉栄二(以上社会大衆党)・尾崎行雄[15]・馬場元治・田川大吉郎・朴春琴(以上第一議員倶楽部)・安達謙蔵(時局同志会)など
欠席[16] 23名[17]: 安部磯雄・片山哲・鈴木文治(以上社会大衆党)・坂田道男・砂田重政(以上政友会久原派)・田中万逸・北昤吉・小山邦太郎・林平馬(以上民政党)など
反対 7名 : 牧野良三・名川侃市・芦田均・宮脇長吉・丸山弁三郎(以上政友会久原派)・岡崎久次郎(民政党[18])・北浦圭太郎(第一議員倶楽部)
と、反対者はわずか7名と、圧倒的多数の賛成票によって斎藤は衆議院議員を除名された。この投票結果や経緯は、ただ単に軍部の政治介入による結果だけではなく、政党自体が議会制民主主義を破壊したとする「自壊」の面があることも斎藤自身や様々な歴史家らも厳しく指摘している。なお、議長の小山は在職中「スターリンのごとく」発言の西尾末広についで、2人の除名決議の議事に携わったことになる。
除名当日、斎藤は日記にこう書いた。(「斎藤隆夫日記(下巻)」より、一部省略)
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https://www.yomiuri.co.jp/politics/20180827-OYT1T50024.html
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◆小泉進次郎氏 自民党総裁選直前にインド外遊 | 文春オンライン
bunshun.jp/articles/-/8194 2018/07/18 - 進次郎氏は『この時期、何を言ってもどうせ総裁選にからめて書かれるから』と、8月は外遊する予定なんです」(進次郎氏周辺)9月下旬に行われる自民党総裁選のカギを握る男・小泉進次郎自民党筆頭副幹事長(37…
◆ゴーストップ事件 - https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴーストップ事件
ゴーストップ事件(ゴーストップじけん)は、1933年(昭和8年)に大阪府大阪市北区の天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩、およびそれに端を発する陸軍と警察の大規模な対立。
◆反軍演説 Jump to navigationJump to search 斎藤隆夫https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%BB%8D%E6%BC%94%E8%AA%AC#%E9%99%A4%E5%90%8D
反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫が行った演説。日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。この演説により、3月7日、斎藤は衆議院議員を除名された[1]。この経緯は言論弾圧としても扱われる。なお、「支那事変処理を中心とした質問演説」や「支那事変処理に関する質問演説」を、一般的に「反軍演説」と称している。
経緯 演説まで
斎藤は「粛軍演説」で軍部の政治関与を批判するなど、国民からの注目を浴びるも、警察・軍部から監視され、脅迫状などの攻撃も受けた。「国家総動員法案に関する質問演説」において、国家総動員法の危険性を指摘するも、立憲政友会と立憲民政党の二大政党は斎藤の主張を無視し、全会一致で成立。その後、過労から転倒して打撲し、脳梗塞の疑いで病床に着く。日中戦争の長期化につれ、病床の斎藤の元へ日増しに、「なぜ、斎藤は沈黙するのか」という類の手紙が増加し、国民の声を議会に届けるべく、「国家総動員法反対演説」から2年ぶりの登壇を決意。1939年11月18日原稿の起草に着手、演説の練習を繰り返す(#逸話参照)。
1940年1月14日、阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親英米派である米内光政内閣が成立した。その後召集された、第75議会の衆議院本会議での、2月2日の議題「国務大臣の演説に対する質疑」における、立憲民政党所属の当時71歳、斎藤隆夫による1時間半に及ぶ午後3時からの「支那事変処理を中心とした質問演説」[2]である。久しぶりの斎藤の演説ということで、傍聴席は満員であった。
議会召集後、民政党院内主任総務俵孫一に質問の旨を通告し、総裁町田忠治は質問に否定的な意向であったが、斎藤はこれを無視。
米内総理、閣僚の演説の後、民政党小川郷太郎の原稿朗読演説、立憲政友会中島派[3]東郷実の演説の後に斎藤が演壇に立った。
演説
斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである[4]。
第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか
第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか
第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか
第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問
第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等
「演説中小会派より二、三の野次[5]が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記している[6]。そして、「しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」と付け加えている。 演説当日の具体的様子として斎藤は、「時局同志会や社民党[7]から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである」と記している。
演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤章(陸軍軍務局長)や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していたという[8]。
また、衆議院議長で、身内の民政党の小山松寿は斎藤の演説中に「聖戦の美名云々」などのメモを記し、衆議院書記官長[9]大木操に渡し、職権により、演説全体の3分の2程度、約1万字にも及ぶ、軍部批判にあたる箇所を削除させた。大木は抵抗したものの小山に屈し、「私はこの時職を賭して戦うべきであった」とのち、日記で悔いている。なお、大木は秘密会の議事録を、陸軍の焼却要求から守り抜き、日記で斎藤除名の様子を詳細に記述するなど、当問題についての貴重な史料となっている。また、斎藤の演説の全文が新聞各紙の一部地域向けの紙面に掲載されたため、反軍演説が各地に報道されることになった。更に外電で配信され、交戦国の中華民国で大きく報道され、アメリカでも報道された[10]。
除名
民政党は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして、受諾。また、総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から、自発的に議員辞職をするよう促されたが、断固拒否した。
反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写する。
政友会中島派、時局同志会、社民党[7]は懲罰賛成に結束し、政友会久原派[3]の多数は反対にみえる。民政党は秘密代議士会を開いて討議しているが、大多数は反対に傾き、幹部攻撃に激論沸騰して容易に収拾すべくみえない
後日、斎藤は懲罰委員会に出席することとなるが、その委員会では、
劈頭私は起って質問演説をなすに至りたる経過とその内容の一般を述べ、さらに進んで政友会中島派より提出したる七ヵ条の懲罰理由を逐一粉砕し、かつ逆襲的反問を投じたるに、提出者は全く辟易して一言これに答うること能わず。
その結果、
委員会は全く私の大勝に帰し…翌日の新聞紙上には、裁く者と裁かれる者が全く地位を顛倒し、私が凱旋将軍の態度をもって引き上げたと記載したほど
とその有様を紹介している。
そして3月7日の本会議で、除名の可否の投票が行われた。議場には167名と3分の1弱の空席を出した。民政党は除名賛成に党議拘束をかけたが、斎藤と親しかった岡崎久次郎が除名に反対し、脱党。民政党で唯一の反対票を投じた。残り170名のうち4割強の69名が欠席または棄権をした。政友会は、久原派が71名中27名が棄権・欠席、全会派中最多の5名が反対。軍部寄りの中島派も97名中16名、金光派は10名中4名が棄権・欠席した。軍部寄りの社会大衆党は34名中、賛成であった病欠の麻生を除き10名が棄権・欠席し、時局同志会は30人中5人が棄権。無所属議員は10名のうち、反対1名、棄権・欠席が7名であった。
投票結果は以下の通り[11]。
賛成 296名[12]: 浅沼稲次郎・河上丈太郎・河野密・三輪寿壮・三宅正一・亀井貫一郎・杉山元治郎・平野力三・野溝勝・佐竹晴記(以上社会大衆党)・星島二郎・松野鶴平・中井一夫・西岡竹次郎・綾部健太郎(以上政友会久原派)・望月圭介・前田米蔵・島田俊雄・山崎達之輔・中島知久平・船田中・星一・川島正次郎・羽田武嗣郎・岸田正記・宮沢裕・木暮武太夫・田子一民(以上政友会中島派)・金光庸夫(政友会金光派)・木村武雄・清瀬一郎・赤松克麿・三木武夫(以上時局同志会)・内田信也・秋田清・安倍寛(以上第一議員倶楽部)など
空票 144名
棄権[13] 121名 : 鳩山一郎・若宮貞夫[14]・大野伴睦・河野一郎・安藤正純・植原悦二郎・林譲治・世耕弘一・三土忠造・森幸太郎(以上政友会久原派)・犬養健(政友会金光派)・田辺七六(政友会中島派)・松永東・松田竹千代・中山福蔵・木檜三四郎・川崎克・矢野庄太郎・工藤鉄男(以上民政党)・水谷長三郎・西尾末広・黒田寿男・松本治一郎・米窪満亮・富吉栄二(以上社会大衆党)・尾崎行雄[15]・馬場元治・田川大吉郎・朴春琴(以上第一議員倶楽部)・安達謙蔵(時局同志会)など
欠席[16] 23名[17]: 安部磯雄・片山哲・鈴木文治(以上社会大衆党)・坂田道男・砂田重政(以上政友会久原派)・田中万逸・北昤吉・小山邦太郎・林平馬(以上民政党)など
反対 7名 : 牧野良三・名川侃市・芦田均・宮脇長吉・丸山弁三郎(以上政友会久原派)・岡崎久次郎(民政党[18])・北浦圭太郎(第一議員倶楽部)
と、反対者はわずか7名と、圧倒的多数の賛成票によって斎藤は衆議院議員を除名された。この投票結果や経緯は、ただ単に軍部の政治介入による結果だけではなく、政党自体が議会制民主主義を破壊したとする「自壊」の面があることも斎藤自身や様々な歴史家らも厳しく指摘している。なお、議長の小山は在職中「スターリンのごとく」発言の西尾末広についで、2人の除名決議の議事に携わったことになる。
除名当日、斎藤は日記にこう書いた。(「斎藤隆夫日記(下巻)」より、一部省略)