「ヒョウガムヨウ・兵戈無用」碑 法栄寺(旭区高殿)
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引用 ::: 「ヒョウガムヨウ・兵戈無用」 碑大阪市内で戦争と平和を考える
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「ヒョウガムヨウ・兵戈無用」碑 法栄寺(旭区高殿)
1945(昭和20)年6月7日11時9分から12時28分までの約1時間半、アメリカ軍の大型爆撃機(超空の要塞)B29、★409機が大阪を爆撃した。護衛のために硫黄島から戦闘機P51ムスタング★138機も加わっていた。
大阪市西部・中心部はすでに焼き尽くされ、アメリカ軍の計画では、焼夷弾爆撃の目標地は都島区高倉町、国鉄(今のJR)鶴橋駅、天王寺駅、大型爆弾の目標は大阪陸軍造幣廠(いわゆる大阪砲兵工廠)だった。
その日の大阪上空は一面の雲に覆われていた。雲量10。B29搭乗員は、目標を目視できない場合レーダーによる爆撃を行うことになっていた。B29のレーダーは、最新のものではあったが、海と陸地の境目がはっきり見える程度で、都市の姿をとらえるまではできない。そのため、ほとんどの爆弾が都島区、旭区、東淀川区(今の淀川区含む)淀川両岸に投下され、P51の機銃掃射も淀川両岸に集中した。
1トン爆弾、500キロ爆弾、焼夷弾が降り注いだ。機銃掃射もあった。淀川河川敷や城北公園に避難した人にも爆弾や機銃掃射が襲いかかった。
旭区高殿にある法栄寺の当時の住職はその日帰らなかった。家人は空襲でやられたのかもしれないと思っていた。2〜3日して帰ってきた。空襲で亡くなった人を弔ってまわっていたのだった。当時は誰もが服に氏名・血液型などを書いた布をぬいつけていたが、住職はそれを確かめ、名前を記録していった。その数、二百数十名。中には、氏名不詳、男女不詳というのもある。
当時の住職がなくなられた後、名簿とその由来を聞いた前住職は、1994年6月5日、戦没者50回忌法要を記念してお寺の前に碑を建立した。法栄寺では戦後60年まで毎年6月第1日曜に全戦没者追悼法要をしていた。
碑の像は親鸞聖人の幼少時のお姿。「兵戈無用」は「ひようがむよう」と読み、無量寿経というお経の中にある言葉で、「兵も戈(ほこ=武器のこと)も用いることなかれ」と訓読みする。前住職は、「日本国憲法九条に通じる言葉です」と言われる。「難しい漢字で書いておくと、なんて読むのだろう、どういう意味だろうと疑問に思われる。それがねらいです。」とも。
当時の人々には「赤川鉄橋をねらった」「城東貨物線をねらった」などとうわさが流れた。しかし、アメリカ軍の計画では大型爆弾はいわゆる大阪砲兵工廠をねらったものであり、今でいう誤爆である。しかし、もともと目標を爆撃できない場合には最後にはどこでもいいから爆撃せよと命令されていたので、そのとおり無差別爆撃したともいえる。
1948年、アメリカ軍が測量として撮影した航空写真には1トン爆弾などの大型爆弾のあとが「爆弾池」として丸く見える。斜めに走るのが城東貨物線。左側に高倉小学校。校庭に爆弾池がある。高倉小学校の沿革史には「昭和二十三年十月二十四日 爆彈池埋立」と記されている。
城東貨物線の右側が旭区高殿地域。ここにも丸い爆弾池がぽつぽつと見える。ガスタンクは1970年代まであった。ガスタンクの上が高殿小学校。[1948年8月31日米軍撮影] (案内人 柏木 功)
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