秀忠は関ヶ原の戦いが初陣であった。彼は3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。この時の秀忠隊は、信濃の豊臣大名と上杉氏・中山道に対処する部隊としての慣例により、隣接地に封地を持つ徳川譜代で構成していた[8]。しかし、上田城の対処で家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。最終的に秀忠は榊原康政・大久保忠隣の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるということはできなかった。
そもそも結果論でいえば、上田城の兵力はわずかで無視して通れば何でもなかったものを、城攻めをやった上に敗北を喫した(勿論、上田城の堅さと真田昌幸が相当の戦上手であったという点もある)、そのうえ上田城など関ヶ原の本戦に比べれば大した問題ではないことがわからなかったということで、秀忠の軍事能力には大きく疑問符が付けられた。
ただ、秀忠に同行した浅野家文書等によると「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令は信州平定である。秀忠はそれに忠実に従っていただけで、その後の河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い、岐阜城の戦いなどの決着が予想以上に速かったことから、家康は自身の江戸出馬を前に秀忠軍に上洛を命じる使者を送っている。しかし、豪雨による川の氾濫のため使者が到着したのが9月9日であり、急いで関ヶ原に向かうが当時の中仙道は道幅の狭い隘路が続き、大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なり、木曽の馬込に着いた時点で戦勝報告がなされ、9月15日の関ヶ原にはすでに間に合わない状況であり、本戦遅参の責任は秀忠にはない。一方で、『真田家文書』では従軍していた信幸に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定であることを伝え、小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してからかなりのんびりした行軍を重ねて、小諸には9月2日に着陣している[9]。
また同時期に伏見城や田辺城で行われた籠城戦を鑑みるまでもなく、秀忠が上田城を攻撃した期間である約3日で、籠城を決め込む上田城を落とすことはそもそも難しい。
家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。本多忠勝は「秀忠軍を待つべし」と主張し、井伊直政は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。